『勉強の哲学』を読んだ感想|勉強とは、を自分なりに考える
『勉強の哲学』という本を読んだ。
「勉強とは、自己破壊である」という心を鷲掴みにされるような素敵な一言から始まる本だった。この本を読もうと思ったのは X で話題となっているポスト がきっかけだった。このポストを投稿した方が「恩師」と呼んでいるほど尊敬している方の本ということで、興味を持ったのだ。
読んでみて、自分はこれまでにまったく「勉強」をしてこなかった人間なんだなと後悔・反省させられたとともに、これから「勉強」をするのが楽しみになった。 というのは、この本が言わんとしていることを正確に理解できていないかもしれないが、自分なりに「勉強とは何か?」を腹落ちさせることができたためだ。
せっかくなので感想を書いてみたい。
※ 一応書いておきたいのが、これらの解釈は自分が腹落ちさせたロジックに過ぎず、著者の意図やバックにいる哲学者の意図から外れているかもしれないので注意が必要だ。
「勉強」をどう捉えるようになったか
この本を読んで私は、勉強はその学問の世界を旅する過程で言葉の持つ自由さを自覚させてくれる。言葉の自由さとは世界定義の自由さであり、ゆえに自分に自由をもたらす と認識するようになった。
もっと簡潔に言うなら、勉強とは詩を詠めるようになること なんだなと感じている。
一体どういうことなのか。
まず、私たちは自分がいる「環境」によって大きな影響を受けている。例えば会社とプライベートでは話し方や態度が変わったりするし、暑い空間にいると喉が渇いて気力もなくなったりする。それらの環境のうち、私たちは「ことば」から最も大きな影響を受けている。なぜなら私たちは言葉を通じて世界を認識しているからだ。
例えば現実世界に赤い果物があったとして、これは「りんご」と呼ばれたり「Apple」と呼ばれたりする。あくまで、日本語で話す環境では「りんご」だと定義されているにすぎず、私たちはこうやって言葉によって世界を定義し、言葉のフィルターを通して世界を認識している。これが、最も大きな影響を受けているというゆえんだ。
ということは、究極的には赤い果実をどのような言葉で呼んでも良いのでは?と考えても良さそうだ。
ここで勉強の話題に触れる。勉強をすると必ず専門用語に出会う。プログラミングをしていると「デプロイ」という用語に触れるが、これはプログラマーではない人からすると DEPUROI という音の響きを持つ謎の言葉に聞こえる。この謎の言葉とは、先ほどのりんごとは違って「意味を定義する力が失われている言葉」である。
勉強は、その学問の内容・世界観を理解する中で「意味を定義する力が失われている言葉」に触れることになる。初学者のうちはこの「意味を定義する力が失われている言葉」を使って何かを語ることになる。何を意味しているか正確には分からないが確かに何かを表現している、という瞬間は、言葉が本来持つ自由さに改めて目を向けさせてくれる。言葉の自由さとは世界定義の自由さであり、これこそが勉強がもたらす自由な世界なのだろうと感じたのだ。
まるで、詩のような自由な言葉の世界なのではと思う。
「勉強」の境地に至る「アイロニー」と「ユーモア」
自分は「アイロニー」と「ユーモア」の 2 つを、先ほどの「言葉を使って自由に世界を捉える境地」に至るフレームワークとして捉えることにした。本文中では違うかもしれない。注意。
アイロニーとは 1 つ上の次元を見る縦方向の視点の移動であり、ユーモアとは別の観点を追加する横方向の視点の移動だ。全然関係ないが、大学時代の先生の口癖、「思考は場所をずらす、時間をずらす、視点をずらす」に通じるものがあるなと感じる。
アイロニーの例は、「海外旅行楽しみだね!」に対して「でも海外である必要って本当にあったのかな?」と、あたり前となった現状を疑って友情を壊すような考え方のことである。
ユーモアの例は、「海外旅行楽しみだね!」に対して「海外旅行前の楽しみって映画の始まる前と似ているかもね!」と、アイロニーと違って肯定しつつも別の関連する物へと移っていくような考え方のことである。
この 2 つの視点移動のフレームワークを使うことによって思考を深めることができる。自ら問いを立て、勉強を進めることができる。なお、本文中ではアイロニーの多用とユーモアの多用はどちらも不幸な結末を迎えるのでやってはならないと紹介されているので、記事には書かないがその点には注意。
どうやって勉強する?
アイロニーとユーモアで問いを立てたとして、どうやって勉強をするのか。
本文では、信頼できる文献を読めと紹介されていた。信頼できる文献とは端的に言うと歴史のある正当な学問のことを指し、文学、計算機科学、などといった「〇〇学」と呼ばれるものだ。 もっと具体的には、その学問の「入門書」と呼ばれる本を手に取り、そして「教科書」や「基本書」、そしてその先(論文?)へと向かっていくことだ。
なお、本文では読書は自分の体験に結び付けず、「書かれていること」と「解釈」を分けて読めと書かれており、この記事はいきなりそのルールを破って解釈ばかりを書いている。解釈はいわゆる「意味を定義する力が失われている言葉」を使うトレーニングをあきらめてしまっているからだろう。
なぜこれまで「勉強」をしてこなかったと感じたか
勉強とは「勉強は言葉の自由さを自覚させてくれることを通じて世界を捉える力を向上させ、自分に自由をもたらすものだ」と書いた。
この境地に至るには、アイロニーとユーモアを駆使して自分で問いを設定し、学問の道に足を踏み入れ、その学問の世界(環境)に移行する道中の旅で藻掻かなければならないと思った。
となれば自分の過去の勉強はどうだろうか。
中高ともに授業は楽しかったが、自分の勉強範囲は授業の内容にとどまっていたし、成績のためという側面が強かったと思う。そして残念ながら大学でもその考え方から抜け出すことはできなかったと感じている。自分で問いを立てて探求する。具体的な行動でいえば、究明したいことのために図書館に赴くような行動を指すだろう。
終わりに
『勉強への哲学』という本に出合ったことで、自分の中で「勉強」とは何なのかを腹落ちさせることができた。正直、著者の伝えたかったことが半分も理解できていないどころか、曲解している自信すらあるが、自分の中で腹落ちできたのは大きい。
大学で学んだ学問や、今自分が興味のある学問の道に「入門」し、勉強を楽しんでいきたい。